きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

前教会長のお国替

おひさしぶりの投稿です。

今年の3月28日に前教会長の清水日出男先生が73歳でお国替されました。

(お国替(おくにがえ)…金光教では亡くなることをお国替えと言います。)

その日(3/27)もいつも通りに御用されておられましたので、まさか突然亡くなるとは夢にも思いませんでした。

夜、いつもより入浴時間が少し長いことが気になった奥様がお風呂に様子を見に行くと倒れられており、意識もなく、すぐに救急車を呼ばせて頂きましたが、そのままお国替となりました。くも膜下出血とのことでした。


突然のことではありましたが、色々なことを通して神様の「お繰り合わせ」ということを感じさせていただきました。
亡くなる前の1週間に、多くの方にお会いすることができていたのです。


倒れる前日は宇都宮教会の春季霊祭でした。

この日はお天気が荒れるという予報でしたが、皆さんお繰り合わせを頂いて、いつもより多くの方が参拝されました。普段あまり参拝されない方もお参りされていました。

ですので、縁ある多くの方が日出男先生にお会いすることができました。

また、その一週間前には信治先生が御用で留守にされていたのですが、いつもなら私が信治先生の代わりに早朝に御結界に座らせて頂くところ、その日はどうしても体調が優れず、日出男先生に代わっていただくということがありました。

その日は霊祭にお参りできられない方がお参りされ、この方も日出男先生にお会いすることができられました。

体調の優れなかった私は、その日は「御用できずに情けない……」という思いでいっぱいだったのですが、後になって、これもおかげだったのだなあと思わせていただきました。



教会長としての教会御用の面では、近年は日出男先生のご体調(関節の不調)もあり、教会御用の多くを信治先生がさせて頂くようになっておりましたので、引継ぎもだいぶ進んでいたところでした。

それで、そろそろ教会長を交代させて頂こうということで2月頃から手続きを始め、書類上では3月の上旬には教会長を交代が済み、5月の御大祭で皆さんにお知らせさせて頂こうかというところでした。

 

こうして、教会御用の上にもお繰り合わせをいただきました。



他には、御用以外の地域のお役など、「どうさせて頂いたらいいのかなぁ……これを機にお断りできたらなぁ」ということがあり、連絡しようと電話したところ、そのお役自体が無くなることになりましたと逆に連絡頂いたり、私たちの思いの及ばない神様のお働きを感じさせていただきました。


元気だった人が突然亡くなるというのは、心の準備ができていない中でのことですので、家族や近しい人にとっては悔いが残ることもあるかもしれません。

一方で、長患いをすることもなく、苦しむこともなくお国替させて頂けるということは本人にとっても、家族にとっても幸せなことなのかなとも思います。


私の祖父はずいぶん長い間、母親と妻の二人の介護をしていました。
私にとっては曽祖母と祖母にあたりますが、いつも私のことを可愛がってくれた祖母が、家族の名前も分からなくなってしまった姿は子供ながらにショックで今でもよく覚えています。

祖父はその介護の大変さが身に染みていたのでしょう。晩年によく「家族に迷惑をかけたくないから早くお国替したい」と言ってはお医者さんを困らせていました。

(そうして祖父の願い通り介護期間は長くはなく、またその介護の時間は家族にとって大変な時間というよりは、祖父との関係が深まるとても有難い時間となりました)


金光教の教祖さまは、歳をとってからは「ぽっくり往生」を願いなさい、ということを話しておられます。
元気に過ごして、ある日突然ぽっくりと亡くなるということですね。

まさに日出男先生のお国替は「ぽっくり往生」でした。

 

 

そして、神様は、突然亡くなっても困らないような道をつけてくださる。

亡くなる前にも、亡くなった後にも。

 

 

金光教ではよく「(神様から)ご都合お繰り合わせをいただく」という表現をします。

 

例えば、毎日晴れるとか、毎日雨が降るなんていうことはできないけれども、この日この時間だけどうしても晴れて欲しいなとお願いさせて頂いていると晴れのおかげを頂いたりするんですよね。都合をつけて頂く。

 

日々神様のことを忘ずに、いつでも神様と仲良くさせて頂いていると、そういうことがよくあるなぁと感じます。

そして、自分の思いもよらないところまで先まわりして、おかげを、お繰り合わせを、用意してくださっているんですよね。

 

 

今日もまた神様と一緒に過ごさせていただきます(^人^)