「無理をしない」というお稽古
先日、ちょっと心の疲れや煮詰まりを感じたので、御広前でゆっくり御祈念させて頂いて、お茶を持って公園(うつのみや文化の森)に少しだけ出かけさせて頂きました。ちょっと広い原っぱがあるんですよね。
この日はスマホもあまり見ないようにして、1時間くらいでしょうか天地の間で森の香や鳥のさえずりに包まれてゆっくりさせて頂きました(^^)
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無理な運動や、休みなく動き続けることは身体を壊すことに繋がりますが、
心だって頑張りすぎたり、無理をすることが続いていると壊れてしまいます。
けれども心は目に見えないので、無理をしていることに気がつかなかったり、心の疲れを無視してしまったりする。
そういうことを続けて本当にもうこれ以上は壊れてしまうという限界状態になると、「いのち」が、SOSを発信し始めるんですね。
例えば、
何もないのに突然涙が出て止まらなくなる
身体が動かなくなる
全てにやる気が出なくなる
原因不明の痛みや発疹が出る
感情が不安定になる。逆に無感情になる。
など……
無理をしてはいけないと言われても、常に頑張って無理をして生きてきた人にとっては「無理をしない」というのがどういうものなのか、どういう状態を指すのか全く分かりません。
無理をしていないとサボっているようで不安に陥ることもよくあります。
みんなは働いているのに何もできない自分はダメだ、サボっている、と自分を責めてしまってさらに心が削られてしまう。
今日のタイトルは「『無理をしない』というお稽古」ですが、「無理をしない」ということもお稽古しないと身につかないのです。
無理をしない生き方のお稽古
と言えばわかりやすいでしょうか。
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金光教の教祖さまのお話の中にも
「無理をするな」「無理をしてはいけない」
という言葉が時々出てきます。
「何事によらず、無理を言うたり、したり、してはならぬぞ。無理が一番悪い。めげる(方言で「壊れる」の意味)もとじゃ。自分でしようとすると無理ができる。神様にさしてもらう心ですれば、神様がさしてくださる。」
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無理をしていると、身体も心も、時には人間関係やお仕事も壊れてしまうことありますね。
お参りして、静かな御広前でゆっくりと御祈念させて頂いていると、自分の心がざわついているなぁとか、頑張りすぎているな、アクセル踏みすぎているな、心は元気だと思っていたけれど案外疲れているなぁ…と自分の状態に気づかせていただくことが多々あります。
心やたましいが疲れていると感じた時には、無理をしないように心がけさせて頂きます。
無理をする、頑張りすぎる、という生き方の癖があるので、神様にお願いしながらそれを解いていく。
例えば、自分が手出しする円(範囲)を小さくする。
全てに手を出すのではなくて、今日しなくてもいいことはまた元気になった時にしようとか、少し気になることも目を瞑る。
今日どうしてもさせて頂きたいことだけ「今の私はクタクタでできそうもありませんので、神様どうぞ手を貸してください」とお願いしながら、神様と一緒にさせていただく。
手抜きできるところ、たとえば炊事も簡単なメニューにするとか、たまにはお弁当やお惣菜にお世話になったり。
疲れてしんどくなればなるほど、細かい汚れが気になってきたり、普段よりもさらに手が抜けなくなってイライラが爆発しそうになる……ということが私も以前はよくありました。
それこそが自分をしんどくさせている生き方なんだということに気づかせて頂いて、疲れた時には少し手を抜くなど無理をしないお稽古って大事なんだなぁと思うようになりました。
イライラせずに過ごせるというのは、一緒に暮らしている家族にとっても大事なことです。イライラしている人と同じ空間で過ごすのはとても緊張します。時にはとばっちりが飛んでくることもあり、心が疲れてしまいます。
無理をしない術(すべ)を身につけていくというのは、自分も周りもみんなが幸せになるために必要なことであるとしみじみ思わせて頂いています。