きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

上半期の節目に思うこと

6月も残り3日になりました。
早いもので令和5年も半分が終わろうとしています。

 

先日は今年上半期の御礼のお祭り「上半期感謝祭」をお仕えさせて頂きました。

折々に立ち止まって、振り返って、神様が授けてくださったおかげを思い返すことはとても大切ですね。

 

おかげを振り返ることで、この半年間、神様がどれほど自分のことを想ってくださっていたか、愛情をかけて下さっていたかをあらためて感じさせて頂くことができる。そのあたたかさを味わい、噛み締めていると、また「有難いなあ」という心がしみじみ湧いてくる。そしてまた神様にお礼を申し上げさせて頂くことができる。

 

御礼はどれほど申し上げても足りることはないなぁとよく思います。
だって、人間にはどうにもできないようなおかげを日々たくさん授けてくださっているのですから。

 

 

振り返るためにはやっぱり記録をつけることが大事だなあと感じています。

 

私は小学生の頃から日記をつけていました。
日々の記録というよりは、心から湧き出てくる苦しさやモヤモヤを吐き出すことがメインの日記でした。また、当時はインターネットもないので「推し活」を共にできる人がおらず、誰とも共有できない推しのことを書き綴ったり。それを書かないと生きていけないから書いているという感じでした。

 

参拝を続けてだんだんと心が落ち着くにつれて書く内容も頻度も減り、いつからか忙しくなって日記を書くことができなくなっていた時期があります。

 

御大祭、上半期の終わり、年末など、節目節目で半年間や一年間の出来事やおかげを振り返ってノートに書き出しているのですが、カレンダーだけでは出来事しか振り返ることができず、日々の心の動きや体調のことなど忘れてしまっていて勿体無いことをしているなぁと思いました。

 

ですので最近は手帳に数行でも記録を残すようにしています。

 

今はアプリで予定を管理する方が便利なのですが、「振り返り」に焦点を当てるとやっぱり手書きの手帳が良いんですよね。

 

 

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉がありますが、どうも人間はおかげをいただく(問題が解決する)と、悩んでいた時のことを忘れてしまいがちなようです。

問題がある時は何度でも神様にお願いするのに、いざ解決すると「よかった、よかった(^▽^)」とその時だけ喜んで、ろくろくお礼も言わずにすぐ「でもね〜」と不足を言い出したり、次のことを心配しはじめる。

せっかく神様が骨折って最善のおかげをくださったのに、そのご苦労、ご愛情を「あ、どうも」で済ましていては何のことやらわかりません。神様だから何だってできるんでしょ?おかげ授けるなんて簡単なことでしょ?と思うかもわかりませんが、そんなことはないんです。

どうしてそこまで骨折っておかげを下さるのか。あなたのことがかわいいから。幸せになって欲しいから。だから愛情を注いでくださっている。


教祖さまがお参りされた方にされたお話の中に、

「神も人も同じこと。何ぼう神を拝んでも、人の心にかなわねば神の心にかなわず。神の心にかなわずは人の心にもかなわず」

というお話があります。


何十回とお願いされて、何とかしてあげたいと思って心を尽くし、力を尽くし、その最中にもまた「どうかどうかお願いします」と念押しされて、一所懸命に動く。

 

その結果、解決というおかげを頂いたのに、その時だけ有り難そうにしてあとは忘れてしまったり、不足を言い出したり、またすぐ次のことを何十回もお願いされることの繰り返しでは、何のために尽力したんだろうかと、人間ならやるせない思いになることでしょう。

 

お願いはしやすい。受験や就職、転職、病気など1ヶ月くらいどうってことなくお願いできる。半年でも1年でもお願いし続けられる。なのに御礼は同じ熱量できないことが多いですね。人間は心配や不安がなくなると忘れてしまう性質があるのかなあと思います。

だからこそ、忘れないために、節目節目くらいはしっかりとおかげを思い出して御礼申し上げさせて頂かないとと思います。

 

立ち止まって振り返ってみると、その時の嬉しさが蘇ってまた嬉しく有難い気持ちになったり、その時は何とも思っていなかったことが今になっておかげだったと分かることもよくあります。

 

 

6月もまだ3日あります。

家族とこの半年間の出来事やおかげを頂いたことを話し合うこともいいですね。自分が忘れていることを思い出させてくれたりもする。

せっかく神様が尽力して授けてくださったおかげ。
粗末にせずに末長く大切にさせて頂きたいものです。