きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

サードプレイスとお教会

1年半ほど前から「サードプレイス」という言葉をよく耳にするようになりました。

 

ファーストプレイス…家庭
セカンドプレイス…学校、職場

 

プレイスとは直訳すれば場所という意味ですが、日本語でいうと居場所というイメージかなと思います。

 

サードプレイス。3番目の居場所。

 

家庭や学校や仕事から離れて、心が落ち着ける場所のこと。

 

学校や仕事帰り、休日に心をリセットできる場所。

 

家庭や学校や職場に自分の居場所がないと感じる人もいると思います。
そういう人たちがホッとできるような居場所。

 

私にとってはそれは教会でした。

 

会社員として働いていた頃は、毎日仕事帰りにお参りしてその日のしんどいことや愚痴を先生に聴いて頂いていました。先生とお話しをさせて頂いているうちになんだかスッキリして元気になる日もよくありました。

 

そんなふうに心の疲れをお教会に置いて帰路についていたんですね。

 

もちろん嬉しいことがあった日は嬉しいことを、心配なことがあるときは心配事を聴いてもらって、うまくいくようにお願いして帰らせて頂く。

 

こういう場所があるだけで帰宅してからの生活が全然違います。

 

もしお教会がなかったら、

 

嫌なことがあった日は「あ~!納得いかんわ~!!」と腹を立てたまま帰宅して、やけ食いしたり、夜更かししたり、はたまた眠れなかったりして翌日の仕事に響くこともあるかもしれないし、

 

不安なことがある日は、考えても仕方がないのにいつまでも考えたりソワソワして眠れなかったりしたかもしれない。

 

まして同居する家族がいれば不機嫌や心配をまき散らして「なんか怒ってるなぁ」「なんか元気ないなぁ」「もうちょっと落ち着いて欲しいな」と家族にも不快な思いをさせてしまっていただろうなぁと思うのです。

 

その積み重ねが親子関係や夫婦関係の破綻にもつながりかねない。

 


私は21歳のころから鬱病をきっかけにお教会にお参りするようになりましたが、子供のころにお教会がこういう「なんでも話せる場所」だって知っていたらなぁ…と何度も思いました。

 

私にっとって家庭や学校は落ち着ける場所ではなく、緊張する場所でしかなかったので。

 

お教会には小学生の頃から時々家族でお参りしていたけれど、平日(お祭りのない日)でもお参りしていいとか、悩み事でも愚痴でも何でも話していいとか、知らなかったんですね。

 

金光教の信心のある家庭で育った私でさえそうなのだから、金光教という名前すら聞いたことない方にとってはなかなかハードルが高いとは思います。

 

うつ病を患っていた大学生の時に、親しい友人にだけ「金光教のお教会で悩みを聞いてもらっているんだ」ということを話したんですね。引かれるかな、嫌われるかなとドキドキしながらでしたけれども。

 

そうしたら「実は自分も家族の問題ですごく辛くて精神的に追い詰められていた時に近くの宗教の教会に飛び込んで聞いてもらったことがあるんだ」と話してくれる人もちらほらいて、やっぱりこういう場所は生きていく上でとても大切だなぁと思いました。

 

心の避難場所であったり、日々のサードプレイス(心が落ち着ける場所)として。

 

今日も朝から夜の閉門まで夫婦や家族で交代しながら、どなたがお参りしてもお話を聴かせて頂けるように御結界に座らせて頂いています。