きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

生神金光大神大祭(いきがみこんこうだいじんたいさい)

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先週の日曜、宇都宮教会におかれます天地金乃神大祭を麗しくお仕えさせていただくことができました。

 

生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)とは金光教の教祖さまのことですが、教祖さまだけのお祭りではありません。

 

その前に、宗教=怪しいと思っておられる方は「教祖」という名称だけで拒否反応起こしてしまう人もいるだろうなぁと思いながら書いています。私自身、公の場(金光教のことを知らない人が多い場)で使うのはちょっと躊躇する気持ちもありますが、それ以外言いようがないので使いますね。

 

何となく世間には「教祖って自分のことを神とか言って、怪しかったり、偉そうだったりする人じゃないの?」という偏見があるような気もします。

 

金光教の教祖さまは江戸時代の農民で、偉ぶったところの全くない謙虚な方でした。その謙虚さから神様からご信用をいただいて神様の声が聞こえるようになり、神様の言葉を人々に伝えるうちに、参ってくる人の願い事(病気、商売、縁談、人間関係など)が叶うと評判になってたくさんの人がお参りするようになりました。(←かなりざっくりした説明)

 

そのうちだんだんと熱心に信心する人の中にも神様の声が聞こえるようになる人ができ、そういう人たちがそれそれの地域にお教会を開いていきました。

 

おかげ(ご利益のようなイメージで結構です)は神様が作って授けてくれます。でも神様には口がない。なので窓口というかメッセンジャーという役割を担ったのが教祖さまに始まる金光教の取次者です。

 

ですので生神金光大神大祭といっても教祖さまだけにお礼を申し上げるのではなく、おかげをくださる天地金乃神様にも御礼を申し上げますし、先祖や自分にとっての金光大神様であるお教会の先生にも御礼を申し上げる御祭典です。

 

前置きが長くなりすぎました。

 

写真は当日の御神前です。

 

神様に色々とお供えをさせていただきますが、一番大事なのは

 

真(しん)  善(ぜん)  美(び)

 

です。


お供物はすべてお浄めさせていただきます。

 

野菜は水で泥や汚れを落としてお浄めさせて頂きます。

 

乾物やお菓子や果物はお布巾でひとつひとつお浄めさせて頂きます。果物のシールなどもすべてきれいに剥がします。

 

そのお供えを乗せさせていただくお三方(さんぼう)も布でお浄めさせて頂きます。

 

野菜や果物を盛らせていただく「おかわらけ」という陶器もお浄めさせて頂きます。

 

ものすごく手間暇がかかりますが、そこに真がこもります。真とは真心と思ってもらったら良いかと思います。

 

そして美しく盛らせていただく。

 

テープや爪楊枝などは一切使いません。使うのは麻ひもだけです(画像でリボン結びしてある麻の皮です)

 

私は麻もお浄めさせていただいています。


お供えを盛ることを調饌(ちょうせん)と言うのですが、調饌は盛り付け発表会ではありません。

 

どこまでも神様へのお供えです。穢れのない心で、神様が喜んでくださるように、お供えされる物(神様のお恵み)たちが嬉しく喜んでくれるように、心を込めて盛らせて頂きます。

 

お供えをすべて御神前にお供えさせていただいた時に、お供物がみんなとっても嬉しそうにしているのを見るのが好きです。

 

物には声も表情もないですが、感じられるんですよね。。。


私は昔、絵を描いたり、彫刻を作ったりしていましたけど、そういうのは自分の中から出てきたものを形にして、出来上がったら「どうぞ見てください!」っていう気持ちだったのですが、調饌は全く違うなぁと思います。

 

お供えものの魅力、美しさを、どうすれば邪魔せずに調饌させていただけるか、物と、神様と、お話しさせて頂きながら盛らせて頂く。自分の中から出てくるものではないなぁと。

 

そういう意味では神様と人の間に座って口を使うメッセンジャーのお役をいただいている取次という関係と、
神様と物の間に座って手を使って形にしていくという調饌は何か共通するものがある気がします。


もっと違うことを書くつもりだったんですが・・・まあいいか笑
普段思っていることを書いてみました。


祭典後は私がお話をさせて頂きました。

 

鬱のどん底に落ちる直前に、偶然に偶然が重なって金光教のとある先生に出会わせてくださったこと、そこからどのように御信心を教えて頂いて助かっていったのかという信仰の原点についてお話しさせて頂きました。また何かの機会にまとめられたらと思っています。