きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

100歳まで

こんにちは。みちよ先生です。

先日、ある金光教のお教会に初めて参拝させていただきました。

8月中には参拝させて頂こうと思っていたのですがなかなか都合がつかず、やっと都合がつく日ができました。



私は毎晩、一日の終わりにお広前に参拝させて頂き、今日一日の御礼と夜の間もお守り頂けるようにお願いをさせて頂きます。そして明日の予定も神様に聞いて頂きます。

その晩も「明日は○○教会に参拝させて頂きます。」と神様にお伝えさせて頂いたところ

「行くな、行くな」

と聞こえてきました。


聞こえてきたと言ってもハッキリ何かの声が耳から聞こえるというのではなくて、心に訴えかけられているような感じですね。

行くな、行くな、と。


こういう時、「気のせいかな・・・」と思うこともあるわけです。
私のエゴかなと。

でも私は明日はそのお教会に行く気満々です。

行きたくないという気持ちは微塵もありません。
どう考えても自分の中から出てきた言葉ではないわけです。


それでもやっぱり私としては明日行きたい。
その日が一番都合が良い。


それで、お広前から下がって夫の信治先生に「御祈念(お祈り)させて頂いたら、神様が『明日は行くな』って仰っている気がするんだよね。どうしようかなぁ。」と話しました。明日になってからまた考えようということになり、その日は休ませて頂きました。



さて、翌朝。

朝の家事なども済ませ、出発の準備もして、お広前にお参りさせて頂きました。

「これから〇〇教会に参拝させて頂こうと思います」

そう神様にお伝えさせて頂くと、やっはり、

「行くな行くな、行くな行くな」

と聞こえます。

しかも昨日より倍になっている・・・


ここまで神様が止められるのだから、道中に事故などに遭うのかもしれないと思い、
参拝は翌日にさせて頂くことにしました。

私としては行く気満々で家事の予定も立てていましたので戸惑いもありますし、楽しみにしていたことの急な予定変更というのは気持ちの整理もつけないといけません。

でもこの日は、させて頂こうと思って先延ばしになっていたことや、普段できないところのお洒掃(お掃除)をたくさんさせて頂くことができ、思いのほか充実した一日になりました。

あぁ、神様は今日は外出せずに家の中のことをさせて頂いたら良いよって教えてくださっていたのかなぁと思い、夜の御祈念では心の底から今日一日の御礼を神様に申し上げさせて頂きました。



さて、その翌日。

私は朝にも毎日お広前に参拝して、夜の間の御礼と今日一日のことをお願いさせて頂きます。

「今日は〇〇教会に参拝させて頂こうと思うのですが、神様、よろしいでしょうか?」

とお伺いさせて頂くと

「どうぞ」

と聞こえました。

なのでその日は参拝させて頂くことにしました。




参拝させて頂いたところ、御結界には女性の先生がお座りくださっていました。

とてもお元気な90歳の先生で(とても若々しくて90歳には見えない!)、たくさんお話を聴かせて頂くことができました。金光教学院(金光教の先生になる学校)に行かれた時はまだ岡山が焼け野原だったとか、神様にお縋りしてれば大丈夫というご信心のお話しなど、1時間も楽しくお話をさせて頂くことができました。ご挨拶だけで帰るつもりだったのですが、たくさんお話をさせて頂いてとっっっても心の元気を頂きました。

今年は宇都宮教会の前教会長が73歳でお国替えさせて頂きましたので、自分の中でどこか焦りようなもの、人生は短いから今できることに命を燃やしていかなけば、というような気持ちが今年はずっとあったのですが、

いやいや、90歳、100歳までも神様の御用にお使い頂くような気持ちでいないといけないな、教祖さまは「死ぬ用意をするな、生きる用意をせよ」と仰っているのだから、と思い直しました。

私がご修行させて頂いた金光教尼崎教会の三代教会長先生は女性で、103歳でお国替えされました。

ご信心は90歳でも100歳でも深めることができますし、神様の御用にお使い頂ける。

私はこれまでも70代、80代の女性の先生とご縁があり、御信心のお話を世代を超えて熱く楽しくお話しさせて頂いて、元気を頂いてきました。

例えば金光教学院では、在教外会実習といって全国のどこかのお教会で2週間ほど過ごさせてさせて頂きます。
私の場合は九州のとあるお教会で、教会長は女性の先生でした。その先生は初代。初代というのはそのお教会を開いた方ですね。並々ならないご苦労を重ねて、布教をされたわけです。

そういうふうに、信心に厚い女性の先生方にどういうわけかご縁がある。お話を聴かせて頂いたり、神様からどんなおかげを頂いたかというお話をお互いにさせて頂いていると元気を頂くんですね。

 

その度に、私もこんなふうにおかげ頂かないといけないな、神様が「こんなふうにおかげ頂きなさいよ」と仰ってくださってるんだなぁと、神様の思いをひしひしと感じさせて頂きます。



話を戻しますね。

その先生とのお話がとても楽しく、元気を頂いたのですが、ふと「昨日は□□教会の月例祭に参拝していたんですよ」と仰る。

そう、昨日私がお参りさせて頂いていたらお会いすることはできなかったのです。

またその後、教会長先生(男性)にもご挨拶させて頂いたのですが、これからZOOMでの会議があられるとのことで、少しだけのご挨拶となりました。

 

その時に「愛媛の西条市と言えば△△神社をご存知ですか?」と尋ねられました。
(*私が西条市出身ということを自己紹介の中でお伝えしたのです)

なんとその宮司さんとは大学の同級生で、今からの宗教の会議も一緒に参加されるとのことでした。

知っているも何も、故郷の人なら誰もが知っている神社で、私が生まれた時のお宮参りもその神社、その地域の人は先祖代々お参りしてる氏神様のような神社です。

私も大学生の時までは元日には家族で金光教のお教会の元日祭に参拝した後、その神社にも必ず参拝をしていました。
私の家の戦前のご先祖様の日記にも、毎朝金光教のお教会とその神社とに参拝してから高校に行っていたことが書かれています。

こんな関東の金光教のお教会で、まさか愛媛の田舎の神社の名前を聞くなんて夢にも思わず、懐かしさと、ほっとする気持ちと、嬉しさでいっぱいになりました。

たまたまその時間に会議があられたのでお話しくださったのかなと思うのですが、これももし前日に参拝させて頂いていたら聞けなかったお話だったのかもわかりません。



こうして、たくさんの元気を頂いて帰路につかせて頂きました。

帰りの道中もウキウキして、それまで数日なかなか眠れなかった疲れもなくなって、今日お参りさせて頂いて本当に良かった、神様ありがとうございます!と何度も御礼申し上げさせて頂きました。


神様は本当にピンポイントでその人その人に合ったおかげを下さる。
人の思いの及ばないところまで、細やかに、先まわりして、おかげを用意してくださっている。

私も昔はめぐりが深く、何をやってもうまくいかない時がありました。
どうしてこんなに運がないんだろうかと思うような時もありました。

でも御信心させて頂くと、「ツイてない」と思うようなことは全くなくなったんですね。

ご信心させていただくとめぐりをお取り払い頂いていく。すると良いことしかないのです。

一見、良くない出来事に見えないことも、必ずその先に思いもよらない良い結果に繋がっている。


神様の声も、本当は一人ひとりに神様が語りかけてくださっているものだと思っています。
ただ、それを無視したり、耳を貸そうとしないと、聞こえなくなってしまうのだと。


何でもかんでも教えて頂ける訳ではないですが、ここぞという時は今回のように何か言葉として聞こえることもありますし、言葉として聞こえなくても気持ちを変えてくださったり、状況を変えてくださったりするなぁと感じることがあります。

例えば、外出中に急に「もう帰ろう」と気持ちが変わり、帰宅した途端に雨が降るということなどはよくあります。

でも油断をすればいつでも昔の自分、何をやってもうまく行かない自分に戻ると思っています。

朝晩に御広前にお参りさせて頂いて、時には他に時間にも参拝させて頂きますし、もちろん御結界にも座らせて頂いて、いつでもどこでも神様に心を向けさせて頂いて、一日を家族と過ごすように神様と一緒に過ごさせていただく。
忘れないし、いつも話しかけさせて頂く。

例えば、スーパーでもいつも神様と相談しながらお買い物をさせて頂いています。




さて、今日は先ほど書かせて頂いた、金光教尼崎教会の三代教会長先生のご帰幽日です。二代先生も今日がご帰幽日です。

終戦間もなく、二代先生が亡くなり、教師ではない奥様が教会を継がれることになりました。
そして二代先生(夫)が亡くなってからちょうど60年目のその日に103歳でお国替えされました。

私がちょうどその日、いつものようにお仕事を終えて参拝させて頂いていると、病院から帰ってきたご家族と三代先生の棺がお広前に到着しました。

ご家族皆さんで御祈念されるような様子でしたので、私はお邪魔になってはいけないと思い帰ろうとすると、当時の教会長先生に

「ここに居合わせたのも何かのご縁やから、あなたも一緒に御祈念していきなさい」

と声をかけて頂きました。

御祈念(その時は皆さんで拝詞を唱えました)させて頂きながら、どうして私がご家族の皆さんと一緒に御祈念させて頂いているのだろう、どういうめぐり合わせなのだろうと、不思議な気持ちでいっぱいでした。

私も100歳まで御用させて頂けるようなおかげを頂きたい。

今日はあらためてそのように思わせて頂きました。