きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

次々と悪いことが起こるとき (うつだった時のこと)

どんなによい人でも、よい行いをしていても、悪い出来事が次々と続くことがあります。

 

これは「めぐり」の時と「お取り払い」の時があるのですが、今回は「めぐり」のお話です。

 

「めぐり」というのは、自分の先祖や自分自身が犯した罪がめぐりめぐって、自分や子孫を不幸にする働きです。

罪っていうのは犯罪ということではなく、人間としての生き方の間違いや天地への御無礼、自分勝手な生き方と解釈するといいと思います。

 

その自分勝手な生き方の罪が子孫に代々受け継がれて、不幸なことが起こっていくということです。

「先祖代々のめぐり」というような使い方をします。

めぐりは怪物のようなイメージだとわかりやすいかもしれません。

最終的にはその家を滅ぼすことがめぐりの目的です。

 

めぐりというのは本当に恐ろしくて、こちらを弱らせて弱りきったところで牙を剥いてくるところがあります。

 
私がうつで苦しんでいた数年は、それ以前にもそれ以降にも経験したことがないような出来事が続きました。
 
私は子供の頃から他人に迷惑をかけないとか、物を大切にするとか、モラルを守って生きることを心がけていました。子供ながらに、「よい行いをしていればよいことがある」と思って生きていたんですね。それは金光教の教えでも何でもなくて、ただ漠然とそう思っていました。
 
そんな自分がうつ病不眠症になって、毎日頭の中は「死にたい」「苦しい」ばかりになって、大学にも通えなくなった。
 
どうして私がこんなことになるんだろう。
一生懸命、まじめに生きてきました。悪いことなんてしていません。
どうして私が罰のようなことを受けなければならないの?
神様、私、何か悪いことしましたか?
 
そう思っていました。
 
一方で
 
こんな私なんて罰を受けて当然だ。
私なんて生まれてきてはいけなかったんだ。
 
とも思っていました。
 
子供の頃からずっと、自分が罪人のような、
生まれた時からもうすでに罪を背負っているような、
生きていてはいけない存在であるような思いもありました。
そいう思いを抱えてしまうこと自体、めぐりの仕業なのですが……。
自責の念が人一倍大きく、それがうつに繋がったところもあると思います。
 
めぐりの思うツボと言ってもいいほど私のうつはひどくなり、常に死ぬことばかりを考えていた時のことです。
 
2年ほどの間に、私の身近な方が3人が自死、1人が事故死、1人が自殺未遂されました。
遠い親戚、バイトでお世話になった方、後輩など……
 
うつを経験された方なら分かる方も多いかもしれませんが、重いうつの時って、例えば人身事故のニュースを見るだけでもそちら側に引きずり込まれそうな感覚になる時があります。次は私が死の沼に引きずり込まれるのではという恐怖がずっとありました。おどろおどろしい沼から腕が伸びてきて足首を掴まれるような感覚。
 
次は自分の番だという恐怖がありました。
 
 
金光教の教祖、赤川文治さんも次々と家族親族が亡くなったんですね。
子供の頃から熱心に神社やお寺にお参りもして、まじめで人から信頼されるような人柄であるのに、不幸が重なる。
両親や弟や子供、農業には欠かせない牛など、5人と2頭の家族を次々に亡くされるんですね。
そしてついには自分自身が病気にかかり命を取られそうになる。
 
家族親族は「この人は子供の頃から神仏を大切にして、とても良い人で、神様に御無礼などないはずだ」と神様に対して怒り出します。
それほど周りから見ても良い人だったのでしょう。
 
でも文治さんは神様に生き方のお詫びをされた。
先祖や自分にどこでどういう御無礼があったか分かりません。申し訳ありません。どうかお許しください、と。
 
そこで神様が病気を助けてくださり、以降だんだんと神様の御用をされるようになられました。
 
 
めぐりって本当にしつこいです。
どんな手を使ってでも不幸の沼に引きずり込もうと迫ってきます。
 
めぐりは神様と自分と、そして神様と自分を繋いでくれる先生と、三人四脚で断ち切るしか方法がありません。
ですので、めぐりは神様や教会の先生のところには行って欲しくないわけです。
 
過去のブログにも書かせていただきましたが、私はうつで苦しんでいた時に、偶然、金光教の先生にインターネットで出会ってお参りをするようになりました。愛媛県から兵庫県へ。
 
初めは父と車で参拝させていただきましたが、その後は一人で高速バスで行かせて頂くようになりました。
一人でお参りするようになったその月、駅からお教会まで歩いている途中に痴漢に遭いました。
 
昼間の住宅街。
 
驚きと恐怖で脚が震えて、頭が真っ白になって歩けなくて。
でもとにかく逃げなきゃ!お教会に行かなきゃ!と思って、御神米さまを握りしめて「神様神様」と無我夢中で慣れない道を走って、お教会の前に出ました。(御神米さまとはお守りのようなものと思ってください)
 
先生の顔を見た途端、ホッとして、大号泣しました。
今までこんなに泣いたことないというくらい、自分でも驚くくらい、大きな声で泣いていました。
先生が一瞬驚いた顔をして、優しく「どうしたの?大丈夫?」と聞いてくれるので、あったことを話さなきゃと思うけれども嗚咽で言葉が出ない。
先生は急いで御神前(神様)にお供えされているお水(御神水)を取ってきて飲ませてくださりました。
そして私が少し落ち着いて話せるようになるまで、ずっと背中を撫でて下さっていました。
 
それから3ヶ月、なぜかお参りの度に痴漢に遭いました。
 
普通なら考えられないのです。
電車でもバスでも、神戸などの人が多いところでもそういうことはありませんでしたし、
先生は「若い女性もお参りされてるけど、この土地で痴漢に遭ったっていう話は聞いたことがないなあ」と仰る。
確かに、私はその後そこに引っ越して15年ほど暮らしたのですが、ただの一度も痴漢に遭ったことないし、お参りされる方からそういう話を聞いたこともないのです。
 
 
さすがに3ヶ月連続してこういうことが起こると「お参りするの怖い」「お参りしたくない」という気持ちにもなります。でも、先生は自分の気持ちを話せる唯一の人でしたし、もっとお話ししたいという気持ちの方が大きくて、脚を震わせながらでも御神米さまを握りしめてお参りさせていただきました。痴漢に掴まれた腕などは先生が御神酒を吹いてお浄めしてくださりました。
 
 
今となっては痴漢のこともめぐりの仕業だったのだなぁと思います。
めぐりはお参りして欲しくないんです。
特にこの先生は本当にお徳の高い先生だったので、もうここにお参りされたらめぐりとしては大困りなわけです。
めぐりだって死にたくないから何としてもお参りして欲しくない。
 
だから私がお参りを諦めるようにと、めぐりは必死に働いていたんだなぁと思います。
 
でもお参りを続けさせて頂いて生き方が変わっていく中で、めぐりの力は弱まり、神様のお守りをいただけるように変わらせて頂いてきたという実感があります。
 
以前のブログに、うつだった時に心療内科に不信感が募って通院をやめ、お教会へのお参りでおかげを頂こうと決めたことを書いたかなと思います。病院より宗教なんて非科学的なと思われる方もおられるかもしれません。
 
先日、ふとその病院のGoogleマップの口コミを見てみようかなと思いました。
当時(2003年頃)はインターネットも今ほど普及していなかったので、口コミサイトなどありませんでした。
 
それで、その病院を見てみたのですが……
 
なんと
 
評価1でした。(5段階評価の1)
 
多くの方が口コミを書かれていたのですが、自分が感じた不信感と同じことを書かれていて、自分が感じたことは間違いじゃなかったんだなぁ…と安心するとともに、そういう病院に引き寄せられることに「めぐり」の執念を感じました。
 
裏を返せば、私の家のめぐりがそれだけ根深く大きかったわけです。
ご先祖様が神様に大変な御無礼をしていたのだと思います。
 
けれども絶体絶命のピンチの時にこのお道(金光教)に救っていただけたのも、ご先祖様(特に高祖母と曽祖父)が熱心にご信心してくれたお徳があってのことでもあります。
 
生き方を改らせていただけば、何事も神様がお守りくださって、道をつけていただける。
 
今はご先祖様を恨むよりは、ご信心を私まで伝えて下さった御礼と、めぐりに呑まれてしまったご先祖様の御霊様の立ち行きを祈らせて頂いています。
 
 
<教祖様が金光萩雄さんに話された教え>
 
どのような大きなめぐりがあっても、信心によって取り払ってもらえる。先祖からのめぐり、祟りは、神が道の立つようにしてくださる。