きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

年頭の御教え

無事に新しい年をお迎えさせていただくことができました。

 

宇都宮教会でも1月1日に元日祭をお仕えさせていただくことができました。

 

宇都宮教会では「年頭の御教え」といって、教祖様の御教えを400ほど抜粋した短冊を祭典後にひとり一つずつ引かせて頂いています。

 

この一年、神様からご覧になって自分にはどういう御教えが必要なのか、どういう信心をさせて頂いたらおかげが頂けるのか、ということを教えてくださいと祈りながら引かせて頂きます。

 

今年も皆さんそれぞれに「とても心当たりがあります」「まさに今の自分の悩みに当てはまる教えが出て震えています」と話されておられました。

 

 

さて、私が昨年の元日に頂いた御教えは

 

「年の若い間に、神様はめぐりのお取り払いをしてくださるのである。年が寄ってからのめぐりのお取り払いでは、体がもたない。一つでも若い間に、めぐりのお取り払いをしてくださるのであるから、ここが辛抱のしどころである。今はあせってはいけない。」

 

でした。

 

ものすごく心当たりがありました。

 

その前年の秋、ある日突然尾骨のあたりが痛み、夜も眠れなくなりました。

はじめは打撲かな?と思い、御用で県外に滞在していた最中でもあったので様子を見ていました。

 

一週間ほどで痛みも引き、このまま自然に治るだろうと考えていたのですが、数週間経ってからまた痛みが強くなり、一進一退という感じになってきました。

 

念のため病院に行かせて頂いたのですが、レントゲンを撮っても原因不明。医師も首をひねるばかり。念のためにと年末にMRIを撮影し、年明けに結果が出るという中での元日祭でした。

 

たまたま大晦日に信治先生と会話する中で「めぐり」「めぐりのお取り払い」についての話になり、「この尾骨の痛みはめぐりのお取り払いな気がする。多分MRIの結果も異常なしで原因不明って言われる気がする」と感じることがありました。

 

そして元日にこの御教えを頂いたのです。

 

ああ、やっぱりお取り払いなんだ、と思いました。

 

この頃はまた痛みが強くなっていて、痛みで夜中に目が覚めたり、朝は布団の中でしばらく動けないというような状態でした。

 

MRIの結果は案の定「異常なし」でした。

お医者さんとしてもどうしようもなく、経過観察ということになりました。

 

この痛み以外にも昨年は「原因不明の体調不良」が多い年でした。

原因不明の腹痛と吐き気で、救急車を呼んでもらおうかと思うほどのたうち回るようなことも何度かありましたし、布団から起き上がれないような体調の日もありました。

 

身体を通してのお取り払いだけでなく、物を通してのお取り払いもありました。

 

一年間に2度も水道管が破損して漏水、床に穴を開けての漏水箇所の修繕工事。

お世話になってきたエアコンさんも壊れました。

 

 

めぐりのお取り払いというのは、病気の手術をするのに似ているところがあります。

身体の中にある悪いところは手術をして取り除いてもらわないといけません。

手術が痛いから、怖いからと逃げまわっていたら、大変なことになることは誰もが予想できることでしょう。

 

病気や手術のように目に見えるもの、手術すれば良くなるというように結果が分かるものだと痛みや苦しみも辛抱もしやすいのですが、めぐりのように目に見えないものだと、「本当にこの先に好転するのだろうか」という不安や疑いのために逃げてしまいやすいように思います。

 

実際に教祖様はこんなお話もされています。

 

「氏子が神に、めぐりを取り払うてくれいと頼むから、神がめぐりを取り払うてやろうとすれば、氏子はあまりに痛いから、よろしいと逃げますのじゃ。神もせっかく出した手を引っこめてしまうわい。」

 

 

先ほど書いたように、昨年は水道管が破損し漏水しました。

 

ある日、水道料金の検針員の方が「漏水しているみたいです!普段の50倍の金額になっていますよ!」と駆け込んで教えてくれました。(水道代はおかげを頂いて、後日免除となりました)

 

水道管は地中に埋まっていますから、破損も漏水も検針がないと気が付きません。生活用水の水圧が弱くなるということもありませんでした。

 

漏水を止めるためには水道管を修理するしかありません。漏水箇所を見つけるというのはなかなか大変だそうで、簡単には見つかりません。床に穴を開けたり、アスファルトを剥がしたり、なかなかの大工事になりました。

 

お金がかかるからといって工事をしないわけにもいかないし、ましてや水道を止めるわけにもいきません。

 

しっかり修繕してもらうことで、ここから先また安心して何年も水道を使わせていただくことができます。

 

今回はかなり派手に漏水していたので検針ですぐに分かりましたが、もしこれが気づかないほど少量の漏水だったとしたら、何十年もかけて水もお金も無題にすることになってしまいます。

 

めぐりも、痛くても取り払っていただけば健康で安心して先の人生を生きさせていただくことができますし、放置すれば何の解決にもなりません。

 

 

昨年はそうして心が折れそうなこともたくさんあったのですが「ここが辛抱のしどころである」という御教えの言葉に励まされ、ここからまた先が開けるのだと信じて過ごさせて頂きました。

 

そうして、12月には身体も心も健康で、痛みや苦しいところは一つもなく、嬉しく元気に御用に動き回らせて頂くことができていました。

 

子供の頃から本当に体力がなく、何事もすぐバテてしまって周りにびっくりされることも多かったのですが、いろいろなお取り払いを頂いて、30代後半になってからだんだんと身体が動くようになりました。普通なら40代になれば体力が衰え始めてくるのでしょうが、10代20代の頃より元気で身体も心も軽く感じます。

 

不思議だな、こんなこともあるんだな、と思わせて頂いています。

 

 

最後に、この御教えには前後のお話しがあるのでその部分も含めて書かせて頂きます。

杉田政次郎さんという方が伝えてくださっているお話です。

 

 

私(杉田政次郎)が信心をしていると、親兄弟、親戚、友達、近所隣は申すまでもなく、みな、私が信心することに反対して、大攻撃をした。家内は絶えず病気になり、商売は暇になり、どうしようもないので、信心にいっそう励み、大阪難波の広前に日に何度となく参拝していた。

 

その頃、大阪のとある信者が、私が別段に頼みもしないのに、金光様(教祖様)のもとへ参詣した時、

 

「金光様、杉田という人は日々広前に参り、月三度のお祭り日には朝から広前に詰めてご用をしております。それなのに、しだいしだいに家の者が病気になり、まことに難儀なことが続きますが、どういうことでしょうか」

 

とお伺いしてくれた。

 

その時、金光様は、

 

「帰ったら杉田さんに言ってあげてくれ。年の若い間に、神様はめぐりのお取り払いをしてくださるのである。年が寄ってからのめぐりのお取り払いでは、体がもたない。一つでも若い間に、めぐりのお取り払いをしてくださるのであるから、ここが辛抱のしどころである。今はあせってはいけない。

 

梅の木は、年に三尺も伸びるけれども大木はない。楠は年に一寸しか伸びないけれど大木となる。今あせらないようにせよ。末で枝葉が栄えて大木となる」

 

とご理解くださったと聞いた。

 

私は何物にもたとえられないほど心うれしく思い、勇ましい心が出て、困難の山坂を歩み、月日を暮らした。

 

 

実際この杉田さんという方は、後年、金光教の先生になり、たくさんの人を助けられました。

 

教会の周りには遠方からお参りする人のための宿屋や移住してくる人の家屋ができ、ひとつの街ができるほどだったそうです。

 

 

さて、今年もまた新たにみ教えを頂きました。


とても思い当たることのあるみ教えでした。

今年もしっかり信心のお稽古をさせて頂きたいと思います。