きら きら きらり

人はだれしも生まれながらにして神様からキラキラしたものを頂いている。誰でも、かならず。

喜び上手

御裏の御用(御大祭に向けての準備など)でなかなか御結界に座ることができない日が続いていましたが、先日、まとまった時間御結界に座らせて頂くことができました。

 

何人かの方が御届けに来られました。(御届け=御結界にお話しに来られること)

 

「今日も一日、無事健康に過ごさせて頂くことができました。自転車に乗れるのも、歩けるのも有り難いです。神様ありがとうございます。」

 

「新しい職場で同僚と自分を比べて落ち込みそうになりましたが、他人と自分を比べないように言い聞かせて、今日も神様とお仕事させて頂くことができました。(自分の心の癖から)お守り頂き、ありがとうございました。」

 

「今日も学校で怪我なく楽しく過ごせました。ありがとうございました。」

 

皆さんそれぞれにしんどいところ、辛いところを通られてきた方ですので、体が動く喜び、他人と比べないように過ごす難しさと乗り越えられた喜び、学校に通えることの有り難さ、社交辞令ではなく心の底からそう思っておられるということが感じられ、私もとても嬉しい気持ちでお届けを聴かせて頂き、神様にお伝えさせて頂きました。

 

 

金光教では「御礼が大切」ということをよく言われます。

形式だけの御礼ではなく嘘のない御礼、喜ぶ心をお育て頂くということですね。

 

どうも「御礼を大切に」という言葉が一人歩きしてしまって、頭ごなしに「御礼をしなさい」と言われてしんどくなってしまったり、逆に御礼を口にしてさえおけばいいというように誤解されている方もおられるのかなぁと思う時があります。

 

 

私も若い頃は御礼や有難いということをよく理解できずにいた時がありました。

御礼御礼って言われるのがしんどい、ありがたく思えないという時もありました。

鬱で死にたいのですから、生きていることそのものが嬉しくないのですから、何もかも嬉しくないわけです。

 

喜ぶことが見つからない、有り難いことなんてひとっつもない、そういう心の人も世の中にはたくさんおられると思います。

 

有難いと思えないという時には「どうしてそういう心になってしまっているのか」を考え、素直に御結界で先生にお話しし、神様と一緒に解きほぐしていくことが幸せに生きるための第一歩であると私は思っています。

 

御礼を言えない、喜べないという時には、必ず何か心にトラブルが起こっているはずです。

 

御礼が言えないからダメではなく、心のトラブルに目を向けてあげてほしいなぁと思います。

 

「死にたい」という気持ちが5分だけでも忘れられたとか、不眠だけれど1分うとうとできたとか、そういう御礼からはじめていきました。

 

小さなことだからとか、恥ずかしいとか思わなくていい。喜ぶべきことは喜ばせてもらったらいい。他人からどう思われるかなんて関係ない。

 

 

足や膝が痛い、肩が痛い、お金がない、他人と比べて自分はあれもこれもない、、、というお話を聴かせて頂くことがあります。

 

でもちょっと立ち止まって考えて欲しいのです。

 

足や肩が痛いといっても運転もできるし、歩くこともできるし、靴を脱ぐこともできる。お金がないと言っても毎日食事を頂けている。自分にはあれもないこれもないと言っても、あるものだって必ずある。衣食住おかげを頂いている。

 

できていた時の幸せを振り返って御礼を申し上げることもできる。

 

不幸か不幸じゃないかを決めるのは信心であると思います。

だからこれは足や肩の問題ではなく、お金の問題でもなく、心の問題だと感じます。

 

 

四代金光様(四代目の教主)は、平成3年に81歳でお亡くなりになられましたが、お亡くなりなる数日前に次のようなお歌を詠んでおられます。

 

 

出来ないと悲しむよりも

出来ること喜ぶべきと

またしても思ふ

 

 

私は初めてこのお歌を知った時に衝撃を受けました。

どんな状況にあっても、どんな体調でも、喜びを見つけていく。

 

「おかげは和賀心にあり」を実践していく。

 

なかなか思い通りにならないのが心です。

だからこそ神様にお願いしながら、神様と一緒に心の癖を直していく。

何度でも自分に言い聞かせていく。

 

喜び上手な人は御礼上手ですね。

御礼を言う心が厚いほど信心が厚い。信心が厚いほどおかげが厚い。

 

 

今日できたこと。

その場その場で心の中で神様に御礼させていただくこともありますし、一日の終わりに御広前に参拝し、振り返って御礼をさせて頂きます。

 

予定通り、思い通りにいかなかったとしても、できたことは必ずある。

そこを神様と一緒に喜ばせて頂きます。